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都立西一直線/小石川、桜修館への道/竹の会の指導は神指導

2016.05.21

 おはようございます。今日は朝から夏期の日程作りに取り組みました。外は初夏の様相ですが、後で外を歩いてみようかと思っています。まだ梅雨入り前ですが、初夏の装いです。ただし、空気は飽くまでも爽やかでまだ熱せられていない、輻射熱もなく、風は清々しく、緑も目にやさしい。好きな季節は?と問われても、もうこの仕事を30年以上もやってると、まともに休める時というものがないので、正直季節を知らない。2年前だったか、晩秋の京都で紅葉を見た。きれいだった。去年の5月の連休のときは、アルペン・ルートを2日間でというツアーに参加した。塾の合間を縫って自然を見に行った。今年は、渋谷Bがいよいよ正式に動き出したのでますます合間がなくなりそうです。渋谷Bは入室定数を10人までに限定して手のかかる子たちの指導の充実を図ろうと企図しております。

 今年は、夏はびっしりと埋まり身動きがとれませんが、9月の連休にはなんとか自然と接する機会をと今から画策しております。

 ◎微調整の達人~竹の会の指導とは神指導

 今日は少しく竹の会の「指導」というものについて説明てみたいと思いました。

 ご存知のように竹の会では授業というものがありません。竹の会では、手作りの教材、これはレジュメと呼んでおりますが、を用いての「指導」と呼ばれる形態をとっております。指導の概念の内容はわたしが勝手に定義したものです。

 竹の会では、これまでにも「通信添削はないのか」というお問い合わせが全国から寄せられております。しかし、残念ながら実現したことはありません。最近目論んだRコースというのも、何件か問い合わせがありましたが、実現しませんでした。これには、竹の会というシステム、つまり指導を核とするシステムが大きく影響しています。

 竹の会のレジュメだけやって伸びるか、という話しですが、上級者なら可能と思います。例えば、学年1番とか、オール5に近いような子なら成功すると思います。

 しかし、竹の会では、勉強初心の者を訓練と指導で次第に上級段階へと導いていくのが普通です。特に、初心者の場合、一枚のレジュメで、理解の深浅を「読み」ながら、「測る」というようなことが必須の指導になります。初心者を指導していて、新しい指導のアイデアに気づくなどのことは日常的にあることです。指導を通して新しい指導のヒントを得るなどのことは頻繁にあります。それは、わたしの説明の技術にも関係することです。わたしは、ワンポイントのヒントを与える、そういうことを理想としています。このヒントを暗示するというのもまた技術です。思考を助ける暗示でなければならない。ワンポイントは、簡にして要を得た指摘であり、これまでに学んできた思考の方法の範囲内で解ける、そういうことを示唆する、意図がある。正解の糸口を暗示することもある。ワンポイントのヒントを与える技術というのは、だれにでもできるものとは思わない。わたしには高校入試、中学入試、都立中受検、時には、大学入試をもう30年以上にわたって指導した実戦経験がある。オール1のバカからオール5の秀才まで幅広く指導してきた経験がある。もうどれだけの数を見てきたのか、忘れてしまった。何百人なんだろうけど、数えるのが不可能と知ったときから数えることもしなくなった。バカを教えるというのは、苦難の連続である。だからその度に学ぶ。発見する。だからたいていのバカには驚かない。わたしならなんとかできる、ということもわかっている。ただバカはもういい、わたしは天才を相手に、わたしの能力を役立てたい、そういう思いで、今は、日比谷、西に合格できる生徒を育てている。

 ワンポイントと言うけれど、実は、ワンポイントというのは言葉の綾で、実はわたしの説明は簡にして要を得た説明、そういうことだ。わたしの説明が「いちばんわかりやすかった」という卒業生ならたくさんいる。学校、塾、いろんな先生に説明してもらったけど、「竹の会の先生がいちばんわかりやすかった」という卒業生がたくさんいる。

 わたしの説明を聞くと、子どもたちは「わかった」と言う。実は、竹の会の指導システムの流れに順調にのっていったような子なら、さしたる説明など不要です。それまでの思考枠組みの中で自分なりに位置づけるから「わかった」ということになる。

 竹の会の指導というのは、ほんとうにわかったのか? わかってないのか? 何がわかって、何がわかってないのか? 常に問いかける指導である。 この子の理解のステージはいったいどのくらいなのか、と問う。答案から推理する。式を書かないのは省力化?それとも実はわかっていない? わたしの発する問い、それは試問であるけれど、答えられない、それでわかってないことがわかる。「式を書いてこい」と言うと1時間経っても戻ってこない。これもよくある。どこかで答えのみ調達したのだ。このときでっち上げの式を書いてくる者もいる。勉強というものに向かい合う姿勢から間違っている、そういうことに気づかせなければならない。突き返す。カンニング、これもある。こういうことをしてマルをもらっても意味がない、ということを、教育しなければならない。ウソを見抜く。子どもというのはできたふりをする。わかったふりをする。わたしが望むのはほんとうに理解したか、その一点である。だから突き返す、厳しく対応することだってある。

 さてどうでしょうか。このような人間と人間のやりとりの機微、そういうものが通信で可能と思いますか。わたしが通信をあきらめたのはそういうわけです。レジュメの添削だけでは意味がないのです。竹の会というのは、人間対人間の機微の中からできる芽を伸ばしていく、そういう意味の指導というものが必須の要件なのです。

 確かに、竹の会のレジュメは秀逸だと思います。わたしはかつてLECという資格試験の予備校なんですが、そこで国家試験受験生のための問題を創作していたことがある。例えば、1問作問するとして、まずいろいろな文献を参考にして、構想を立て、作問、ストーリーを作り、問題化する。これには2日はかかった。そして問題ができたら解説を作る。いろいろな学説を紹介する。判断には必ず論拠を示す。参考文献を示す。この解説製作の方が何倍も苦しい。こうしてようやく1問完成すると、LECへUSBに入れて持っていく。何日かして採用が決まると、プレミアム問題という判定がもらえればボーナスもつく。こうして1問数万円をもらう、そういう仕事をしていた。今の竹の会のレジュメの解説制作には、その時代のわたしの苦しかった経験が生きていると思う。わたしは、作問するといつも詳しい解説・解答をつくる。わたしの解説・解答は市販のものとは全くちがうオリジナルの発想のものだ。詳細な解説は、図を駆使して、カラーを入れている。このわたしの解説を読んだ天才はいつも感動する。バカ生徒には猫に小判ではある。

 課題レジュメはこどもの欠陥を発見する意味もある。字が汚いとか、読みにくい、読みとれない、乱雑な答案、レジュメがいつもヨレヨレ、名前を書かない(自分のことをみんな知ってくれているとでも思っているのか、名前のないノートで自分のことならわかってくれるとおもっているのか)、問いに全く答えていないとか、丸写しとか(だからテキストの解説風の言い回しも気にしない)、バランスなし、常識なし、理解なしなどすべて見えてしまう。課題の意味は、そういう自分の悪いところ、足らないところに早くに気づき修整することでしょ。

◎中学生諸君へ

 君たちは何のために竹の会に来ているのか。高校入試に成功したいから、そうでしょ。だから竹の会に教えを乞うために来ている、そうでしょ。

 君たちが竹の会をどう考えているのか、知らないが、竹の会が君たちに当然尽くすべきものと考えているのなら、それは勘違いであるから、早々に竹の会を去ったほうがいい。

 大手のように、塾を仲間と共に楽しみたいのなら、どうかそちらへ行ってほしい。塾は楽しいところだ、そう期待しているのなら、それは竹の会ではない。

 少なくとも自立する年齢にさしかかった中学生に、楽しく学んでもらいたい、などと気にすることはない。

 竹の会が、わたしが、心から願っているのは、「勉強したい」、「竹の会で学びたい」、そう心から思っている生徒に、そういう人に、真摯に手をさしのべたい、ただそれだけである。

 わたしは礼を知らない中学生の相手はしたくない。勉強というものには懼れをもち、謙虚な気持ちで対しなければならない。わたしに礼を忘れた所為が、恣にままに許されると勘違いしてはならない。もしそういう勘違いをしているのなら大手に行って好きなだけ楽しめばいい。しかし、そういう生徒に阿るのは、少なくとも、竹の会ではない。

 わたしは、礼を尽くす生徒には、礼を尽くして接している。それがわからなければ君たちはただのバカだ。

 

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