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中学受験 高校受験 受験相談 渋谷で創立30年

都立駒場、新宿という選択/課題の提出方法等/勉強というものは面倒くさいもの/省力化という自滅型

2016.05.17

 おはようございます。明日の準備が少し残っておりましたので、片づけていたら結局昼過ぎになってしまいました。

 今日は、まず、竹の会のみなさまから課題レジュメの提出方法などについて質問がありましたので、そのお答えの意味もありまして、最初に扱うこととしました。

 ◎竹の会のレジュメに対する対応について

  直接レジュメに書く体裁・形式のものは、直接レジュメに書いてください。ただし、解き直しについては、別紙がいいと思います。別紙に何を使うかは、自由ですが、わら半紙では、永続性の点で問題があります。今年の小石川合格者はコピー用紙を使っていました。彼女は算数などもすべて直接書かずに白いコピー用紙に書いてきました。ただし、字数が問われるもの、たとえば、作文、四字熟語などは原稿用紙です。

  「教養のための理科」をノート提出している人がいますが、これだとあとで復習しにくいのではないか、という気がします。問題の答案を探すのに手間取るのではないかということです。

  わたしが紹介した原稿ノートでもいいのですが、1冊に様々なレジュメの答えを書くのはお薦めできません。作文なら作文のみとするのがいいと思います。これからレジュメは数十種類に及ぶと思いますから、いちばんいいのは、A4の原稿用紙と思います。あとで問題と答案をセットにしてファイルしていると、読み返すときに便利だからです。

  課題を提出するときは、その回の問題レジュメと答案を必ずセットにして出してください。これは次回の課題をパソコンで検索する便宜のためです。また解き直しの提出のときは添付の参考答案もいっしょに出してください。これは再添削の際に、解き直し答案と比較したりする便宜のためです。どの程度参照したのか、丸写しなのか、など。

 課題の提出は、渡された日の次の指導日を原則とし、遅れてもさらに次の指導日までとします。課題の提出がない限り新課題は課されることはありません。去年の6年生にはそれをいいことに2、3か月も提出しない子も複数いました。

 ◎部活と高校受験

 中学という学園生活をエンジョイするということを重要視する親御さんもたくさんいるでしょうし、部活をやることによって、特に男の子の思春期のエネルギーがそちらで燃え尽きてくれたらと秘かに考えている親もいるのかもしれません。部活を通して培われる人間関係、社会性といったものも大切といえばそのとおりです。

 これは一般論ですが、部活に没頭して、受験に成功する人は超少数です。わたしの元には、最近中3生の親から問い合わせメールが2件きておりますが、いずれも学年2番とか、5ばかりという生徒で、連日野球やテニスに明け暮れてこれというのですから余程の集中力の持ち主、つまりは天才なのでしょう。1週間のうち部活で空いた日がほとんどないというのですから、竹の会に問い合わせてくるという意味がわかりませんでしたが、部活から解放される9月以降にまたご縁があれば問い合わせてみてください、ということで話しは終わりました。

 こういう例外的な人はいいのです。問題は、とても両立できない普通の中学生の話です。親は週1回だけとか、2回だけとか言っていますが、たいていは塾では疲れて居眠り、そういう生徒が家で居眠りもしないでまともに家庭学習をやっているとはとても思えず、案の定、定期テストはいつも散々な成績でした。親は塾を責めますが、その前に部活に流されている自分の子の能力を疑うべきでしょ。塾に来ていれば成績がよくなる、成績が下がるなら塾に行かせている意味がない、という論理なのでしょうが、こちらから願い下げです。

 部活をやっても成績が維持できると単純に考えている親がたくさんいますけど、そんなことはありえません。部活をやればそれだけ勉強にかける時間が減るのですから、下がって当然なのです。ですから、部活をマイナスとして口実にしないだけの能力がなければダメです。知能が分散するというだけでなく、体力も気力も減殺するということです。部活というのはそういうリスクがあるのです。

 よく高校に入ると早速部活に捧げるという生徒もいますが、一般的には、そういう人が、それなりの国立大へ行くというのは、希有なことです。毎日部屋にこもって勉強するくらいでないと、高校の教科というのは、いちばん専門性が高いと思うので、ものにはできないと思います。高校の場合、数学や英語のレベルの高さもそうですが、たとえば、化学一科目にしてもかなりのレベルです。半端な時間ではとてもものにできないでしょ。

 そういうわけで部活、特に運動部にいて、それなりの都立に入るというのは至難なことです。多くの生徒が、都立を諦めて、偏差値の低い私立高校に単願で入る、ということになります。今は、20年前と事情が違います。少子化が進み、高校受験には有利な状況が整っています。私立は定員を集めることができずに苦慮しています。日大レベルや専修大レベルの一般受験もかつてに比べてかなり入りやすくなっています。どこの私立も定員の50%を推薦で決めてしまいます。推薦もその態様はいろいろで単願のような事実上の無試験で生徒を青田刈りするのが常套手段となっています。私立があれだけ特別クラスというものを作るようになったのはもちろん少子化対策による経営危機からです。だから高校入試では選ばなければどこかに入れることになっています。

 今のような都立高校の地図は、少子化とかつての都立の凋落、公立中の学習不振生徒の増加、低偏差値私立の経営危機、様々な要因がからみあってもたされたものです。

 都立は、3年型都立が、6年型都立の勇躍に刺激されて、その反動ともとれる結果を示しています。今や、都立の雄は、日比谷であり、負けじと西が君臨しています。区外では国立が一極化しつつありますが、23区内では、2雄に次ぐ都立戸山が盛り返してきました。青山も奮闘しています。独自校では単位制の都立新宿高校がやや奮いません。こちらは明らかに、後発の小石川や桜修館、武蔵に負けています。今後は、6年型では、小石川と武蔵が2雄となる予測です。武蔵の問題はスタート当初から異色でどちらかというと難問であった、そうわたしは見ていました。そういう難問で勝ち上がってきた武蔵の生徒が伸びていくのは当然なのかもしれない。

 共通問題型の雄は、都立駒場と都立小山台でしょう。いずれも名門です。特に、駒場はオール5の女子優等生の憧れの高校とされてきました。駒場や新宿に受かるにはどの程度の力が必要か、どの程度の勉強が必要か、ということですが、いずれも推薦合格にはオール5が基準になる。共通問題というのがミソである。独自問題とは自ずから対策も異なる。同レベルとされる新宿は、独自問題ゆえの難しさというか、それなりの対策をとる必要性において区別されることになる。

 都立戸山の学園祭でもいい、新宿でもいい、駒場でもいい、とにかく学園祭に行ってみればすぐわかる。生徒の質が違うのである。総じて賢い。こういう都立学校に子どもを行かせるということは、孟母三遷の譬えを出すまでもなく、朱に交われば赤くなる、の諺を出すまでもなく、すぐれて良好な選択であることに疑いはない。

 頭の悪い、レベルの低い、そういう子たちの集団に自分の子どもを通わせる、そういう学校を出て社会にどういうふうに登場することになるのか、まともに職を得ることはできるのか、定職もなくぶらぶらしている子たちがどれだけいるのか、そういうことを考えても、やはり部活をエンジョイすることは人生の栄養になると言いきれるのか。

 少なくとも、わたしは、竹の会の子たちが将来社会に出て悲惨な人生を歩まないですむようにと、竹の会の子どもたちだけは、無事トップ都立高校へ送り届けたいと責務を感じている。

 ただし、中学生が勉強しなくなったというときに、わたしがそれを叱ることはない。わたしのできるのは勉強するという強い意思のある子、将来の夢に燃えた子を全身で受け止めて指導することだけである。勉強に情熱がなくなればそれは竹の会を去る時である。中学というのは常にそういう決断を前提に指導しているのだということは忘れてほしくない。意欲がなくなればその時は退塾の時である。 

 現在竹の会で学んでいる中学生のみなさんは、わたしが常にそういう覚悟で臨んでいるのだということは誤解しないで知っておいてほしい。というか、これは小学生つても言えることですが、わたしは指導が成功するかどうか、ということをいつも悲壮な覚悟で考えている、だからわたしにはもはや無理と判断することだってある、ということです。

◎受験には成功しない型

 勉強というのは、とにかく面倒くさいものです。頭の悪い子がいろいろと面倒くさがるというのはよくありますし、これはしかたないでしょう。頭が悪ければ何をしているのかもわかっていないでしょうから、やる気も失せる。しかし、人間というものは、怠惰というものが本質なのか、頭のいい人間にこそこの面倒くさがるという性癖に近い行動が多いわけです。頭のいい人間というのは即座にこれは意味があるとか、やってもしかたないとかを見通してしまう。それで意味がないと思うととにかく端折るわけです。とにかくなんでも楽をしようとする。やらないで済ませればそれがいちばん効率的だと考えている節もある。

 わたしが、よく「式を書きなさい」と言ってもなかなかやらない。わたしが説明したわら半紙をレジュメに貼り付ける。自分でノートにまとめるなどということを端折る。こういう人間は課題を出されても、実行しない。実行することが大切だと諭されても、何かと楽な方法を見つけて端折る。

 面倒くさがったらだめです。勉強というのはもともと面倒くさいものです。ノートは几帳面にとる。27年桜修館合格の女子は、びっしりと式を書いていた。面倒臭がる子は、殴り書き、簡略な主観的な式、つまり自分だけがわかる式展開を書いて平気であるが、こういう子は受からない。式は答えの正当性を他人に示すものである。単なる主観的なメモ書きではない。

 まず、試験というのは、文字勝負です。読めない文字を書いていてはだめです。うまくなくてもいい。くせのない真っ直ぐな文字、定義に近い形の文字を書ければそれでいいのです。文字の形式的定義も満たさないのは文字ではありません。

 どんなにやっても意味がないと思っても、やってみなければわからない、やってみて初めて見えてくるものばかりである。やる前からもうやっても同じみたいな態度でやらない人間になってはならない。勉強というのは、いつもどんなに意味がないと思えてもやってみて見えてくることばかりである。

 省力化人間になってはならない。面倒くさがってはいけない。師匠が無駄と思えるようなことを言っても、素直に順う、そういう子が伸びる、伸びていくのである。

 頭のいい子が失敗するのは、先が見えてしまうため、やっても意味がない、面倒くさい思って、真摯に取り組まない、そのためである。頭がいいと言ってもその程度の頭ということだ。ほんとうに賢い子というのは、そういう中から何かをつかんでいく。やってみて「やっぱり無駄だったじゃんいか」と思うのが面倒くさがる子ですけど、賢い子というのは、そういう中から勉強の態度、方法というものを学びとっているものです。

 

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