2025.01.08
🟪受験はカネをかける覚悟がなければ成功はしない❗️
高いから安く済ませようとする、その代わりとして、品質の悪い安いもので済ます、あるいは自分限りで済ます。そういう判断は結果として確実に失敗の選択になる❗️
教育はもちろんその典型だが、これと言ったとき、迷わず費用をポンと投じる、それで手際よく結果が出せたなら、時間と無駄な思考、回り道の労力をかけずに成果をもたらす❗️
学問は、投資の思想がなければ成功しない。カネをかけないで、自分でなんとかしようとするから失敗するのだ。これはわたしがさまざまな受験を通して、身をもって体験してきたことだ。高校時代、大学受験、資格試験、すべてカネをかけなければ合格できない。他人、いや先人の教えがなければ受からない。わたしは、家庭が裕福でなかったので、カネをかけられなかった。だからほとんど独学でやってきた。そのために、随分と遠回りをしたように思う。高校のとき、東大に行った奴の家には、本棚にぎっしりと参考書が埋まっていた。わたしは高1当時参考書というものを持ったことがなく、友人たちがチャート式数学を持っているのを見てもキョトンとしていた。わたしに基本的に欠けていたもの、それは情報だったと後年思った。いやその前に情報にカネをかけられなかったというのが正確と思う。
それから勉強に没頭することのできる環境と精神力が求められる。これは孤独の選択である。高校以降の勉強は、孤独の世界に入り込んだ者の勝ちである。高校、大学、資格試験とすべて孤独の選択となる。
孤独の中でしか勝利はない。高校以降の勉強は、お友達は害になる。
昨今は、難関国家試験は、大学に在籍しながら、予備校を2以上利用して受かる者が多い。予備校1つで、80万はかかるから、誰しもが真似のできることではない。予備校の利用と言っても教材だけ手に入れるために80万払うという奴もいる。予備校に通い授業を受けるのにかかる時間を無駄と考えるわけだ。他方、予備校の内部テキストには、抜群の整理をしたものが多くあり、個人の力を遥かに凌駕している。教材だけを高額で買うことになるが、そこには「投資」という発想がなければとてもそのような真似はできない。投資して高い価値を手に入れるという発想である。家計的発想で日々の生活をやりくりしている限り、教育の成果も庶民的である。個人が努力して得られる成果は、挙げて個人のもともと持つ才能に左右され、特に、才能に優れていない限り、抜きん出ることは難しい。仮に、優秀としても、かかる時間と努力量は並大抵のものではない。苦節◯年の合格という形になるのか。
優秀なら戦略的に、かつ投資的に、カネをかけたなら、その成果は計り知れない。中学受験において、大手進学塾にカネをかけて通えば、優秀な子なら、その投資効果は計り知れない。それが投資である。しかし、季節講習を節約する、土曜講座、日曜講座などを節約すれば、それはたちまち同じ能力集団からの脱落を意味する。
竹の会は、公立中高一貫校指導を始めたのが、平成18年4月からであったが、それから、平成年間は、本当に、最少のカネで節約型カリキュラムでやってきた。しかし、それで受からないことが、確定的に悟ったのは平成28年のことであった。小石川に4名受検。これまでの経験からは4名全員合格と見た。しかし、結果は1名のみ。このとき、最小の指導時間では限界を感じた。令和3年は、小6中途からのものが複数いたこともあったが新型コロナのためこれまでの最小の時間も確保できないままに、突入してしまった。惨敗。このとき、これまでのような最小の指導時間では合格はもはやないと確信した。
試験というのは、戦略である。成功した先人に学ぶのが最高の戦略となる。これにはカネがかかる。
わたしは、高校入試については、本能的に時間をかけなければ受からないということを知っていた。だから竹の会発足当時Sコースという、全時間フルタイム指導を受けられる、いわばディズニーのパスポートのようなコース設定、受験にカネをかけられる人向けであった。平成初期の竹の会の難関校合格者は須くS出身者であった。都立青山、新宿、駒場は、竹の会の常連合格校であったが、ここに合格する子は内申がいいことは前提で、通常のコースで合格させることができた。まだ都立が牧歌的な時代の話である。
かつてのわたしの指導スタイルは、受けた依頼をあらゆる手を尽くして成功させてきた、というものであった。例えば、光塩小の子が成城学園を受験したい、と言えば、成功させた。偏差値64の男子が、青山学院に合格したい、と言えば、合格させた。おまけに市川高校にも合格した。受けた仕事は必ず成功させてきた。合格のためには、何が必要か、分析して、必要な手を尽くした。そういう合格請負人型の仕事をほとんど合格という形で成功させてきた。
高校入試にしても、中学入試にしても、竹の会の場合は、わたしの直の指導がものをいう。よく「ひとりでやります」なんてのは、100%失敗の選択となっている。そのことは失敗した当の本人が一番よく知っていることだろう。
わたしが監督して、見守って指示を出す、それがコンサル指導である。これは「わからないところを教える」型の塾の先生ではない。受験で勝つための総合指導である。わたしは後年このような指導を、コンサル指導と呼んだ。高校入試なら5科目について合格点を取ること、そのためのあらゆる手を尽くすこと、これである。瞬時に変化する生徒の状況を常にリアルタイムで把握し、その都度適切な指示を出す。これが受験直前の指導スタイルである。家庭で個人が独りよがりにやる勉強はわたしから言えば効果なし、むしろ自殺行為である。わたしは、よく塾代を節約して「家庭でやります」ということを言ってくる親子がいると、それが自殺行為に等しいことがわからない庶民の悲しさを知ったものである。
高校受験でも中学受験でも直前の指導はコンサル指導でなければ勝つことは無理である。
しかし、そのためには、受験学年になる前が大切である。どこまで仕上げているかが、受験学年での成績の飛躍を左右する。だから竹の会では、中1で中3の数学、英語をどこまで進められるかを試金石としている。それには季節講習は必須である。竹の会は享楽型の家庭は合わない。受験最優先の家庭のみが適合する。季節講習に出ない選択をする家庭は竹の会には不適合である。受験期に伸びないのは、中2までに勉強最優先の選択をしなかったからだ。どうすればいいか、という相談は意味がない。それまで習い事、稽古事、旅行など好き勝手やってきて受験学年になって伸びないからと相談してくる親には解答はない。
上述の事情は中学受検でもほぼ変わらない。都立中学に成功する最適学年は小2入会である。一歩譲って小3の4月でギリギリである。これはもちろん能力も関係する。小4からだとなぜ遅いか。計算と割合基本だけで1年はかかるからである。小5になって割合から様々な思考展開をするには小5の1年はあまりにも短い。なぜなら小5の遅くとも冬には適性検査問題による思考体験を始めるべきだからである。これも高校受験と同じ、小6になってやるのでは時間があまりにもない。とにかく時間がないのだ。だから余裕を持って都立に立ち向かうには、小2からがいいのだ。小2で計算をマスターさせる。この計算を小3に持ち越した者はやはり合格は厳しい。計算マスターとは、難関中学の計算問題がたちどころに解けることをいう。竹の会の子たちは、みな計算達者です。それは毎回の指導の開始前に、難関計算問題を必ず4問解かなければ指導を開始しないからです。
都立中学は、思考力検査です。ただし、それは単純に思考ということでもない。わたしは、大人成熟度検査だと思っている。つまりませている子が受かる試験である。適性検査とは、社会常識力、適応力を試す試験だからである。世の中の道理のわかった奴ほど受かるということです。社会常識のない奴は受からないのだ。当たり前のことに当たり前の、大人の判断ができなければ受からないのだ。偏見に満ちた子どもにはもともと無理な試験なのである。