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🔛わかりやすい、という危うさ

2024.01.30

🔛わかりやすい、という危うさ
 よく塾のチラシやネット広告で、「わかりやすい説明」を謳うキャッチフレーズを見かける。講師が「わかりやすく」教える、というのだ。「わかるまで」教えるというのもある。理科などの教材の宣伝も、「今までにないわかりやすさ」というのをキャッチにしたものをよく見かける。
 そもそも「わかりやすい」というのは、なんなのか。普通に書いても理解できない人がいる、ということは暗黙の前提事実である。この時点で、知能的な問題なのではないか、との疑いがないのか。
素直に解釈すると、普通の説明が理解できない人に、普通じゃない説明をしてわからせる、とでもいっているのか。
一般に、わかりにくいのは、抽象的なため、である。だから具体的にすることで、確かに、わかりやすくなる、ということはある。しかし、その程度のことなら、普通の指導者ならみなやっていることだろう。
 昨今は、親も子も何かと言うとわかりやすさを言うけれど、わかりやすさを求めるというのは、それだけ自分の子がバカだということなのである。なにしろ、普通に説明してわからないのだから。教科書はもっとも標準的な、いやむしろ万人が読んでわからないことのないように配慮した、優れものの教材である。これを読んでもわからないというところが問題なのである。教科書よりも、わかりやすく言うというのは、私には想像もつかない。教科書は平均であり、その平均さえもわからないというのは、もはや能力の問題だということを親も気づいてよさそうなものだが、論理も何もあったものではない。とにかく「わかりやすさ」というのが独り歩きしているのだ。
 そもそもわかりやすくは何かは知らないが、物事というのは、わかりにくいから自分の頭で考えるのであり、この考えるという過程を「わかりやすい」説明というまやかしでカットするのは、どうなのであろうか。本来「わからない」とされる原典を直截考えもしないで、他人が噛み砕いた、もしかしたら原典を曲解したかもしれない説明を鵜呑みにして、その贋作を考えさせられているかもしれないのである。
なぜ、原典を直截、考えてみることをしないのか。あれこれ考えを巡らせて、想像して、仮定して、検証して、頭を使うことをしないのか。読みもしないで、わかりやすく説明して、もらって、わかった、とすませる。
 わかりやすさというのは、そんなに大切なことなのか。
わたしは、むしろわかりにくい、難しいという方が、自分の頭のアウトプットの場を得られて、楽しいのだが。
知識というのは、不思議なものである。料理に似ている。知識を概念構成し直すと全く新しい知識枠組みとしてすんなり頭に入るものだ。わたしたちは、知識は料理して、頭に入れるものだ、と知らなけれならない。
知能の働きとはそういうものではないか、と思う。
既存の知識の枠組みをそのまま丸呑みさせられることほど苦痛なことはない。
わたしたちは、既存の枠組みをわかりやすく説明するという人に砕いてもらって頭に入れなければならないのか。
わかりやすさというのは、時に頭を停止させる、いや常に停止させる。わたしは、自分の頭を使わないままに、選択するということに、盲目のままに往来を歩くような危険を感じる。
新型コロナの蔓延初期、ワクチンのリスクが曖昧なままに、政府、御用学者、御用機関、判断しない官僚、役人、自治体によってわたしたちは、自らの思考を半強制状態に置かしめられた。 
はて、コロナはワクチンのおかげで終息したのか。
南アフリカでは、猛威を奮ったデルタ株のワクチンを打たないままに終息してしまった。ワクチンを打たなかったことで、他のウィルスに対する免疫も正常に働いている。放っておいてもやがて終息したのではないか。
日本という国の特殊性
テレビ、新聞、ネットが、庶民の判断を撹乱する社会である。
テレビが、トイレットペーパーを買い漁る主婦、高齢者の映像を流しただけで、あっという間に日本のスーパーからトイレットペーパーが消えてなくなる、そういう国である。主婦や高齢者に深い、配慮があるとはとても思えない。
日本の政治は腐りきり、政治家のどの面を見てもみな清廉潔白とは無縁の胡散臭さを漂わせている。
明治維新の頃の政治家がいいとは思わない。薩長藩閥政治が利権政治なのも今と本質は変わらない。 
ただ今と違うのは、利権と無縁の、清廉潔白の士が確かに「いた」ことである。一つには、生死の境を切り抜けた人間がいた。死と直面した人間がいたことである。
山川健二郎 清廉潔白の士
会津藩出身で白虎隊士(途中離脱)として明治政府と戦ったが、後に国費で米国留学をして東京帝国大学(東京大学の前身)に登用された。東京帝国大学理科大学長、東京帝国大学総長、明治専門学校(九州工業大学の前身)初代総裁、九州帝国大学(九州大学の前身)初代総長、京都帝国大学(京都大学の前身)総長、旧制武蔵高等学校校長、貴族院議員、枢密顧問官を歴任した。

元総理の安倍が山川健次郎を引用したことがある(2018年)。ちょっと違うのではないか。山川健次郎は清廉潔白の士である。安倍とは正反対の立ち位置にいる人である。「山川健次郎伝」は是非読んでもらいたい。

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