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🟥現代指導論  教えるの正体 2

2025.08.09

🟥現代指導論  教えるの正体 2

 
 結論から言えば、教えるとは、教える側が、オレはお前より頭がいい、という心理にその本質がある。その表れとして、教える者には、教えられる者を支配する、コントロールする、ことに喜びを感じる、あるいは助けてやるという意識が教えることに快楽をもたらす、心理がある。学生が、教えたがりであるのは、その本質から考えれば頷ける。教えるというのは、教える者の教えたいという欲求を満たす、極めて私的な行為である。教師は本来教えることが好きだから教師になったはずだ。そう、はずだ。食っていくためにという主たる動機は見事に背面に隠されてはいるが。
 大手塾は、「教える」を見事に商品化した。「教える」に多種多様の付加価値を付けて売り出した。この商品を買えば慶應に受かりますよという具合に。
 しかし、「教える」は、教えられる側の事情によって、矛盾を露呈することになる。
 境界児童に「教える」は、功を奏さない。天才には、「教える」は不要である。だから天才には、教える以外の塾の付加価値を示す必要がある。入手困難なテキストとか、評判の講師とか。あるいは過去に天才たちが出した合格実績も付加価値となるのかもしれない。この塾から合格者が多数出ている、それは天才の合理性に響くかもしれない。凡才は、天才たちが出した合格実績に、凡才であることを忘れて、都合のいいように解釈してくれるから、塾にはありがたいお客様である。塾の経営を支えているのは、少数の天才たちが出す付加価値と8割の凡才・境界児たちの出すカネがあるからである。
 「教える」というのは、極めて私的な行為であり、学校は制度的に「教える」を組織化したものである。学校はできるだけ落ちこぼれを出さないように、レベルを平均に合わせる。だから秀才以上には退屈この上ない。要するに放っておかれるのである。平均ないしそれより下に合わせた授業でも、境界児童たちは落ちこぼれる。だから学校の授業は意味がない。だから公立小の児童の8割は境界児童である。こういうのが公立中高一貫校を受検するのだから、一貫校塾は商売繁盛である。優秀な児童が集まれば、付加価値を作れる。しかし、私立受験塾には希少な知能優秀児、まあまあの子達が集まり、昨今は、こういう子達が公立中高一貫校を併願志望するから、正直境界児童群の出る幕はない。
 以上が「教える」を商売として、資本主義に適合させた予備校、大手塾の実体である。
 わたしは「教える」のが嫌いである。教えてもらってできるようになることはない。成功するのは、自ら考える子である。わたしは、いつの頃からか「指導」という言葉を使うようになった。「教える」には、授業が前提として制度化されており、したがって、テキストが必須のアイテムとされる。
 わたしは、「教える」のは、両刃の剣、かなり危険な行為と考えている。
 わたしは長い間かけて「指導」に実体を具体化してきた。
 レジュメ方式を取ったのは、「読んで理解する」という学習の基本態度を貫くためである。レジュメは「考える」には格好の方法である。理論のレジュメ、問題のレジュメ、知識のレジュメ、わたしは片っ端から制作していった。指導用レジュメには、最初解説をつけていなかった。指導で説明するからである。しかし、高校入試指導用レジュメは、かなり詳細な解説を制作した。またその流れで、適性問題レジュメは、微細な図を色彩豊かに盛り込み、解説と相まって読めば明快にわかるレジュメにしていった。授業で教えるではなくて、「読んで理解する」という軸を崩さないように、そうした。
 竹の会は、「教える」ことをよしとしない。教えることは、思考停止を強いるものである。また、教えられて得た知識は、問題実践の場では、使えない。自分で考えた歴史がないと使えないのだ。入試は、見たこともない問題が出るのが当然である。そのとき教えられてきた子は、為す術を持たない。手も足も出ないのだ。思考で戦って来た者のみが、思考、つまり工夫を働かせて、難局を切り抜けることができるのだ。
 わたしは、そういう子を育てたい。わたしの思いは、子どもたちにどうすれば思考という、子どもたちにとって将来のかけがえのない財産を手にさせることができるか、というところにいつも向けられていた。思いつくアイデアをいつも実用として使えないか、研究を重ねてきた。
 最近になって、卒業生の多くが、東大、東北大、京都大、一橋大、東京工大などに合格したという報告が相次ぐようになった。わたしの指導の真の効果が、こうした形で身を結ぶようになったことを密かに喜んでいます。

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