2015.10.28
★青山学院高等部・合格(女子)
竹の会の高校入試の記録を紐解いてみると、青山学院高等部合格の記録が3つあることに気づくかもしれない。
昭和62年、平成3年、平成11年である。
そのうち昭和62年の合格は、竹の会初めての高校受験の年であった。合格したのは、この回顧録でも取り上げている男子であった。そして、平成3年と平成11年の合格は、いずれも女子である。そのうち平成11年の合格については、回顧録で取り上げている。彼女は、青山学院高等部に合格後、現役で慶應大に合格し、今は大手新聞の記者として活躍している。
そして平成3年の合格者については、かつて私は触れたことはないし、触れるつもりがなかった。別に隠していたわけではないが、彼女が中3の1年間弱、数学だけを学ぶために竹の会に通っていたという実感しかなかったからかもしれない。
そこで、この平成3年合格の女子と、平成11年合格の女子を比較しながら、平成3年合格の女子の思い出について書いてみることとした。
○本文
彼女は、公立中の生徒でした。
入会したのは、中3のいつであったのか、記憶がはっきりしません。とにかく背が高い人でした。父親がひとりで面会にきたのが、最初ではなかったかでしょうか。
そのとき、「慶應女子にいきたい」のだということが、父親の口から出たのは覚えています。
私が、「それなら、1日5時間は勉強しなければ」と話すと、父親は「娘は中1の時から、毎日最低5時間の勉強をやってきました」と言いました。さらに、父親は言いました。
「娘は中1の時から、学年でずっと1番です。今は昴(当時有名な大手進学教室)に行っていますが、そこでは2番です。学芸大附属の男子が1番ですが、なんとかそこでも1番になりたいと娘は言っています」と。
私が、「なぜ竹の会なのですか」と尋ねると、「竹の会の数学がすごいと人に聞きました」というようなことを言ったと思います。
彼女は竹の会に通い始めました。
昴に通いながらのことです。確か、週2回、1回3時間の指導であったと思います。
私が都内の一流校(開成・学芸大・お茶の水・慶應など)の過去問10年分から良問を選んで、1冊にまとめた問題集(絶版)を使って指導しました。難問ばかり集めたものです。解答・解説はわら半紙に手書きしたもの。色鉛筆を使って図を描いて、シンプルな説明が特徴でした。当時、私の書いたわら半紙解答・解説が人気でした。
彼女は、とにかく集中力がすごかったと記憶しています。同じ姿勢で問題を睨みながら、一言も発せず考え続けていたのが印象的でした。私が、「そろそろ解説しますか」と言うと、「いや、もう少し考えさせてください」と首を横に振りました。そのためもあって、受験直前に約300問中40問ほど解き残したと思います。さすがに、私に聞いてきました。そこで、私は残りの問題すべてに解説を書いて、彼女に渡したものでした。
さて、彼女は数学だけを勉強するために竹の会にやってきました。だから、私は彼女の英語力も国語力も全く知りませんでした。慶應女子というのは、数学以上に英語が難しいということはわかっていましたが、彼女からは何も申し出がありませんでしたので、私から一切指導することはありませんでした。
竹の会はあまりにも数学で有名になってしまい、数学塾のようにとられていたのかもしれません。あるいは、英語はたいしたことはないと思われていたのかもしれません。
ちなみに、当時の高校偏差値は、女子に関しては、第1位が慶應女子で、第2位が青学でした。女子についてはと断ったのは、男子は青学偏差値は女子に比べてあきらかに下でしたし、男子は開成・巣鴨・海城・筑波大駒場(すべて男子校)など上位を占めていたためです。
当時は、豊島岡女子は青学より下でした。今では豊島岡は東大進学校として、慶應女子に次ぐ第2位の地位にあり、第3位が青学(もちろん女子のみ)となっています。
また、中学受験で女子が東大を目指していわゆる桜蔭などの御三家を目指すことができても、そこで失敗すれば、高校受験で女子が東大を目指すにはほとんど学校がなかった時代です。高校受験の東大進学校はほとんどが男子校でした。女子には東大への道がほとんど閉ざされていたのです。中学受験が唯一、最後の機会であったのです。
もし、高校受験で東大を目指すなら、都立高にいくしか方法がなかったと思います。今は、池袋の豊島岡女子が優秀な女子を集めることに成功し17名ほどの合格者を出すようになり、豊島岡の偏差値が一気に跳ね上がりました。竹の会では平成20年にこの豊島岡に合格していますが、その子は都立西に進学しました。
当時、慶應女子に失敗した子は、青学に行くしかなかったのです。
そして彼女は、青学に行きました。彼女はそのまま青学大に進み、今は外国にいると風の噂に聞いています。彼女にもし東大という気持ちがあれば、青学に進学しないという選択もあったと思うのですが、意外と彼女は思い切りのいい人のようでした。思い切りのよさは頭のよさです。ひきずらないのは、頭がシャープな証拠ですから。
私は、彼女の英語も国語も見ていません。だから、数学を除いて彼女の実力を知りません。
竹の会の英語が認知されるようになったのは、平成10年のS君の早稲田合格あたりからでしょうか。
平成11年に青学に合格したTさんは、私が英語も数学も国語も指導した子です。大学入試でも数学と英語を指導しています。だから、私の指導で合格した子です。
平成3年合格の彼女は数学のみの指導で、その数学力は卓越したものでしたが、中3からの指導では遅きに過ぎました。慶應クラスは、中2の早い時期くらいからやらないと間に合わないと思っています。それに、英語も国語も私流のやり方でないと、私はだめだと思っていますから。だから、私は平成3年の合格者についてはあえて語ってこなかったのです。
その頃の竹の会には、このような大手進学教室の秀才たちがかけもちでよくやってきました。私もその当時は、そういう子たちを受け入れてきたのです。そういう子たちが慶應などに合格しても、かけもちの度合いが大手に比重がある場合は、竹の会の合格者として出していないだけです。ここでは回顧録で取り上げる便宜上、彼女を合格実績に入れていますが、通常、大手の合格実績のようにかけもち合格者を出すことはしません。大手の合格者の合計が定員の何倍にもなっているのに気がついた方もいることでしょう。
平成11年合格のTさんは、桜蔭女子に失敗後、東大への夢を捨てられずに、中学ではサピックスに通いました。竹の会はかけもちだったのです。その彼女が中3の11月にサピックスを止めて、竹の会の受験指導に専念し、青学から慶應大へと進んだことは、他の回顧録でお話しした通りです。
当時の竹の会は、「数学がいい」という評判でした。
だから、竹の会の英語を信用しなかった。それにかけもちというのも竹の会を甘くみていたとも思うのです。その竹の会も、平成10年に手塩にかけた生徒が早稲田に合格したのを契機に、かけもち申込者を受けつけないこととしました。とはいっても、竹の会への信頼が強いということでかけもちを認めた例はあります。その子は慶應高校に合格しましたが、もちろん竹の会の合格者としては出していません。
これで私が、平成3年の青学合格者について多くを語らない理由がお分かりいただけたことかと思います。しかし、それでも、私が真摯に指導してきた子ではありました。