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竹の会回顧録(昭和62年)~数学にかけたある戦士の思い出~

2015.10.28

★青山学院高等部・合格(男子)

※この文章は、昭和60年12月に竹の会に入会した、竹の会第1期生のK君が、昭和62年入試に臨むまでのお話しです。

※この文章は、平成3年9月23日に出された「竹の会指導論集1」と冠された小冊子の中のひとつです。

ここに、数年前に青山学院高等部に入学したK君の思い出を綴ってみることにした。

 

K君は公立中学入学当時、学年三番の成績であったという。

小学校の時から家庭教師につき、竹の会に面接に来た当時も、東大の大学院生2人がついていた。しかも秀栄、河合塾など一流進学塾を渡り歩いてきた戦士であった。

そのK君が、私の出した手書きの募集はがきを持ってお母さんに連れてこられたのは、中2の十二月のことであった。

 

青山学院志望ということであったが、成績は伸び悩み、このままではとても合格できる見込みはないということで、思い悩んでいたところ、私のはがきが舞い込み、その文面が気に入って、飛びついてきたということである。

当時青山の偏差値は69位であったと思う。

面接の時、自分の成績表、答案一切を持ってきて私に見せてくれた唯一の人であったが、このとき「自分の考え」を言った唯一の人でもあった。面接では大体、親が主導で、子供は親に求められて、首を縦にふったり横にふったりするのが一般である。このとき、彼は既に主体をもっていたのである。入試まであと一年余、私と彼との苦闘の始まりであった。

最初の授業は、彼の理解がどの程度のものかを知るために、数学の教科書を用いて、矢継ぎ早に解かせていった。誤解したところ、間違ったところ、詰まったところでは厳しく指摘する。

あっという間に三時間が終わった。

彼の理解力はかなりのものであった。

計算力が劣っていたものの、文章題に対する彼の解答力は群を抜いていた。図形に対する理解も相当なもので、逸材に出逢ったという気がした。なにより、彼の育ちのよさからくる素直さ、温かさといった人柄が私を捉えた。

 

このときの私の授業は、彼にとってまさに衝撃的であったらしい。

翌日にはお母さんから電話があり、家庭教師、塾一切を止め、竹の会にかけたいとの申し出があったのである。

彼は、「僕はいろいろな塾に行ったので、塾のことはよくわかります。ここが一番いいと思います」とさわやかにいったものである。

 

こうして、年の明けた一月から、私の本格的な指導が開始したのである。

まず、数学教科書のすべての問題を解かせた。それから駿台の「スキル演習」から問題を抽出し、コピーを用いて私製の問題集にして、これをつぶすことを始めた。英語については、不安はそれほどなく、英文解釈の指導を主とした。難関校入試の要である数学の指導が、どうしても優先された。指導に際しては、まず彼に解かせる。解けるまで考えさせる。たまにヒントを与えることもあった。

 

私が、あまりに時間がかかるのでそろそろ解説を入れようとすると、彼は「ちょっと待って下さい。もう少しで解けますから」と言っては粘った。一時間二時間考えるのは普通であった。約束の三時間はあっという間に過ぎていった。こうして、地道な努力が積み重ねられていった。やがて春休みとなり、私が夜の間に準備した問題を翌日解かせるという、私にとってはかなりきついノルマが続いた。その春休みも、あっという間に過ぎていった。

K君は、中三になった。中三の教科書をどんどん進めた。

並行して、「佐藤の数学」の基礎編応用編をほとんどコピーして、例のように問題集にしてつぶしていった。教科書はハイスピードで進み、夏休み前には確率を除いてほぼ終わらせていた。

が、夏休みに中断した。

彼が河合塾で英語を受講することになり、竹の会の夏期スケジュールと調整がつかなくなってしまったのである。このときの中断が、結局慶應の失敗につながったと後日K君は悔しがった。

しかし、彼は私の厳命に従い、夏休み中、一日十時間の勉強を実行した。

夏休みが終わるとK君が帰ってきた。

また数学の授業がはじまった。私は新たにZ会の数学問題集から独自に編集しなおした、手製の問題集を作った。それが、その時期の中心となった。難問ばかりで、一題解くのに一、二時間かかるのはざらだった。残っていた確率の分野は、「スキル演習」とZ会の問題集で作った手製問題集で修得させた。この作業は10月一杯まで続いた。

 

11月になると、いよいよ一流校の過去問をつぶす作業に入った。

この段階で、ようやく高水準の指導がとれることになる。開成、武蔵、慶應、早大高、学芸大、筑波大、桐朋、桐蔭など名だたる高校の入試問題の過去六から十年分を網羅的につぶしていった。私も、K君とともに問題にとりくみ、彼の為に最高の解答を考案していった。

 

こうして12月も押し迫ったある日、彼のご両親との話し合いがもたれた。彼の偏差値は意外に振るわず、12月の三者面談ではとても青学などとは口にだせず、結局本郷を受けて、都立をすべり止めにするように勧められたとのことで、かなりがっくりきておられた。

本郷でも偏差値は64あり、危ないともいわれたとの由であった。

私は現在の入試問題による指導がまだ中途であり、さらに彼にそのとき実行させている、今までにやった問題の復習の三回目が終わる頃、冬休み明けの試験を見て欲しいということで、青学受験は事実上決まった。実は彼の実力は相当の水準に達していると私は見ていたし、彼自身もいつしか青学は眼中になく、慶應を目指しはじめていたのである。

彼の実力は慶應早稲田をうかがえるまでに達していたのである。

冬休みになると、彼は竹の会に入りびたりの状態になった。
授業は深夜に及び、2時3時ということもざらであった。私の家族が寝静まった中で、二人で問題を解き続けた。冬休みからは、50分と時間を切って入試問題の訓練も開始した。深夜二人でよく即席ラーメンを食べた。私が体調を崩すと、彼は本当に心配してくれた。彼は思いやり深く、常に相手の立場に立って心を配った。試験の結果が思わしくないと、必ず自分の努力が甘かったといって自分を責めた。

 

いつだったか、私がVネックのセーターを前後反対に着て授業していたことがあった。彼は何も言わなかった。途中、前後逆だということを家族に教えられて私が照れると、彼は申し訳なさそうに笑った。

一月の始め、河合塾で合否判定テストが実施された。彼は数学百点をとり、青学の合格可能性は80%と出た。
実は彼は国語を最大の苦手としていたのだが、この国語克服の道程については機会があればお話したい。

ともかく、彼の数学の修業は続いた。時間との戦いに苦しんだ。一流校の過去問による訓練が回りきれていなかったのである。彼は夏来なかったことを悔やんだ。が、今はそういうことをいっていられない。竹の会での開成武蔵等の入試訓練では、90点を超える事も多かった。彼はいつも考えていた。道で会っても何か思い詰めたように考えている姿があった。私は彼の為に全生活をかけた。

そして、戦士は入試に立ち向かった。

初戦は市川高校(偏差値69・早慶受験者の登竜門)。

発表はお母さんが出向いた。今でもお母さんの弾んだ声が耳に残っている。

「先生!Kが受かりました!」。

 

次は慶應志木と意気込んだものである。受験者は5千人にも達し合格者わずか100人という難関である。私は彼の実力なら可能性はあると思っていた。しかし、彼は本番でその実力を出し切れなかった。

 

次は中大付属を手堅く取るべきと考えたが、彼は周りの反対を押し切って開成高校を受験した。試験のあった翌日、彼が入試問題をもってやってきた。私が一番から順に解答していくと、1題解くごとに「あっ」という彼の声が響いた。

いつしか、彼の目には悔し涙があふれていた。明日は青学の試験という日のことであった。

青学の発表は夕方にあった。

彼の家では、青学中等部に通う妹さんが見に行くということになっていた。

が、家族みんながめいめいにこっそりと見にいったらしい。

 

合格していた。

私のところに連絡が入ったのは夜8時を過ぎていた。あまりの喜びに一家でわーっと食事にいった由である。家の中がパッと明るくなった様子が目に見えるようである。

入学後、彼の成績が十番以内にあったことを知らされた。

数学は、彼によると計算一題をしくじり95点だったということである。

やはり、彼はわたしの思った通りの実力者であった。

最後にそれを証明したではないか。慶應はだめだったけれど、慶應に受かる実力があったことは、私が一番よく知っている。「K君おめでとう」。私は目に溢れる涙をこらえた。

こうして、K君との一年余の受験生活は終わった。

熱い情熱を夢にかけ、全力を尽くすその姿に、私は感動せずにはおれない。奇跡の合格、彼の出身中学では多くの先生達がそう言って驚いたということである。ある先生は、「Kにとって塾の先生は神様だな」といったそうである。

が、奇跡なんかではない。

彼の実力を皆が知らなかっただけなのだ。

彼のひたむきな努力をする姿を私はいつまでも忘れない。

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