2025.11.29
🟨合格請負人仕事録(6)
令和4年 筑波大学附属駒場高校 開成高校 渋谷幕張高校 城北高校
小4の夏の入会試験にやってきたのですが、その時の様子は実はよく覚えていない。ただ、通知表に、「もう少し」が何個かあり、「よくできる」があまりない。それでこれは脈なしか、と思ったのを覚えている。そしたら、竹の会で言うところのA合格で、知能が高いことがわかった。小石川を念頭に指導した。早稲田進学会の模試は、すべて成績優秀者として、名前を載せた。本来なら小石川は合格するはずであった。しかし、結果は、不合格。なぜ落ちたのか。いろいろ分析してみたが、思い当たるのは、彼が、世の中に疎い、世の中をあまりにも知らない、精神的な未熟さ、であった。適性検査試験というのは、ある意味成熟した子でなければ対応できないところがある。精神が幼いと、世の中の常識とされる判断ができないのだ。適性検査の適性とは、畢竟大人度を言うと思う。特に、男の子は、精神的に幼過ぎるところが特徴的で、これは社会の大人の視点からはかけ離れている。男子よりも女子が受かりやすいのはこの理由による。
そういうわけで、すぐに高校入試指導を開始することになった。実は、落ちたときしばらく沈黙が続いたのだが、ある日突然「竹の会で高校入試をやりたい」とお母さんからメールがあり、それなら早い方がいいということで、すぐに始めたのだ。
最初は、せいぜい日比谷あたりをと考えていたが、その考えは、中3になって、まるで違うことがわかる。今考えると最初から東大狙いであったのだと思う。
中3の6月、いよいよ駿台模試デビュー❗️ 二週間ほどして結果資料を持ってきた。全国順位3位、日比谷志望者2000人中1位、慶應志木志望者中1位、早稲田高等学院志望者中1位、開成高校志望者中3位、筑駒志望者中3位 でした。
彼の指導は、中2が終わるまで、駿台模試全国順位を取るための、私の敷いたプログラムに従ったものでした。中3になってからの指導は、国語記述対策、英語英作文対策、古文対策、その他補強点を過去問で検査し、弱点を見つけたら、直ちに補強に入る、の繰り返しでした。過去問は、開成と筑駒だけ、過去50年分集めました。もともと竹の会にあった過去問だけでは、繋がらないので、手を尽くして、集めました。英語は、駿台模試で80点取っても全国順位100番ほどですから、やはり90点は必要でした。補強には、大学入試の参考書を使いました。わたしが、選んだ一冊をやる、という感じでした。中2までにやったのは、竹の会の秘蔵のレジュメ、わたしが、選んだ参考書、その他です。その他の部分が実は公表できないノウハウが詰まっています。わたしの経験と直感に従って指示を出しました。こうして、彼は、いよいよ6月の駿台模試に挑戦したのです。彼に取っては、中学になってから、初めての模試でした。いわばデビュー戦です。そして彼は模試初でいきなり全国順位3位を取ったのです。駿台模試全4回はすべて7位以内で、全国順位1位を1回取っています。
さて、中3の夏以降の指導は、さらに密度の濃い内容となっています。それは、既に中2までに、開成3位の力をつけていたことからもわかると思います。そういう段階で、わたしが取っだ戦略は、全国順位1位を不動のものとするものでした。彼は開成入学後、ずっとトップテンにあったと聞きましたが、彼のお母さんは、「竹の会の貯金のおかげだった」と申しておりましたが、そうかもしれません。実は、わたしは、彼に、大学入試レベルの指導をしたのです。英語、国語で使った参考書は大学受験のものです。数学は、大学入試とは違いますから、わたしは、別の作戦を立てました。開成、筑駒の過去問50年分全問を潰しました。さらに、灘、東大寺学園など関西の難関高校の過去問から毎日何問かを解くように指示を、出しました。
問題は、理科、社会です。開成、筑駒に対応できる、市販の参考書が皆無だからです、かといって大学受験用はやり過ぎです。わたしは、先の過去問50年分から、ノートを作るように指示しました。さらに、予備校のテキストで補強しました。
東京大学合格
こうした対策が取れるのは、すべて中2までに、終わらせていたからです。竹の会は、数学、英語などが効率的に、短期間でマスターできる体系が完成しています。テキストなんか使わない。すべてレジュメで効率よく学べるようになっている。だから早い子で、中1までに中3を終わらせられるのです。
竹の会の指導は、実質的には、個人指導です。一人一人を観ています。教室は、指示されたことをやる場です。だからやってることが、皆違うということはあります。わたしは、子供一人一人に指導メニュー、プログラムをイメージしています。
わたしは、心の中では、常に、自分の仕事は「合格請負人」だった、と思うことがありました。子供の熱意、揺るがない努力の姿勢を見ると、わたしは、「私が合格させてやろう。合格を請け負う」と強く誓ったものです。 それをプロと呼ぶかはともかくとして、わたしは、合格させるために、日夜考えました。何をすればいいのか、何か欠陥はないか、見落としはないか。いい方法はないか、どうやるか、いつも工夫しました。工夫に工夫を重ねてきたのがわたしの指導だったと思います。そのわたしの心情を支えたのは、子供の深い信頼、親御さんの、決して口を出さない、わたしへの心からの信頼でした。合格請負人の仕事はわたしへの信頼が基礎にありました。竹の会を信頼しない人たちは、たいてい中1前後に、遅い人でも中2までに竹の会を去りました。多くは大手に行ったと思います。竹の会の成功者を思い返して見ると、実は、共通点があるのです。親御さんのわたしに対する信頼が絶対であること、そして、決して口出しをしなかったこと、ですね。成功者のすべてに共通していました。子供がどんなに優秀であっても、口出しする親の子は、悉く失敗しています。それは、合格者の親御さんが一番よくわかっていることですね。
わたしは、プロの合格請負人と思っております。わたしが、合格させる、合格を請け負ったときは、必ず合格させます。わたしは、そう思って、合格させてきました。合格させるためには、わたしは、ありとあらゆる工夫をし、時には、生命を賭して(とまで思い詰めて)指導に没頭してきました。だから、わたしが、合格請負人になったときは、わたしは、成功したときに泣き、失敗したときは、何日も反省、分析し、苦しみました。もちろん悔し涙を流しながら、夜道を歩いたこともありました。わたしは、発表の日、掲示板の前に立ち、番号がない、という現実を、どうしようもない冷徹な事実をつきつけられてきた人間です。わたしのプロ魂は、そういう悲しみを乗り越え、強かに、タフになって来たのだと思います。もう、絶対に、子供たちの涙は見たくない、親御さんの悲しい顔も見たくない、わたしは、掲示板の前に立つたびに、そう誓ってきました。そういうとき、わたしは、合格請負人だ、必ず合格させる、プロの意地にかけてもと何度も心の中でつぶやきました。






